日原温泉開発の思い出(1)



とうとう、お湯が噴きあがる。ボーリングしている管から2〜3m噴き上がる。毎分100L。 深さは地下81mのところだ。

49mのところで毎分4L自噴してたのでもっと深くボーリングすると多量に自噴するとは思っていたが、毎分100L/minもっと深くボーリングすると多量に自噴するとは思っていたが、毎分100L/min とは驚いた。

私が島根県の西のはて、益田と津和野の中間に位置する日原共存病院に赴任した のは、昭和45年10月だった。
翌46年5月祖父(松原大権現)が日原に来た。 その時、「洋よ、日原で温泉がでるぞ」「日原の氏神である春日神社の神様がこの住宅の上のほうの桐の木が生えている田んぼだと言っておられる。雪が降ったときよくみてご覧。温泉が出る
ところは、早くとけるから。祖父はお酒ものまず、タバコも吸わず、ずっと精進でとうしていた行者でした。
 
その祖父が85才で、昭和52年12月28日、日原で亡くなりました。


昭和53年、弟の和久と相談して、祖父があのようにいっておられたので、ほんとうに温泉がでるかどうかやてみようということになった。そのころ和久は宇部に住んでいた。湯田温泉に近いことから、温泉組合の紹介で山口大学の名誉教授の高橋教授と知り合う。高橋教授に相談して一度に日原にきてもらった。地形的ににも、温泉が出てもよいところだ。

11月になって地下の温度調査をしてみようということになった。


紹介で山口大学の名誉教授の高橋教授と知り合う。高橋教授に相談して一度に日原にきてもらった。地形的ににも、温泉が出てもよいところだ。

11月になって地下の温度調査をしてみようということになった。地下1mの温度をはかると、それが地下水の温度と相関するそうだ。

昭和53年8月、日本の温泉の総元締めのお神様、秋田の出羽三山の湯殿山神社に、母(長島天美)と和久と私3人でお参りする。日原の温泉が出るようお願いした。湯殿山大神のご神体が温泉、常に肌には熱い湯が岩の間から噴出していた。




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